「支払いは現金で」2000枚、3000枚の万札を数えた時代…
私が初めてクルマの営業に携わった会社は、正規ディーラーではまずお目にかかることのない高額なポルシェを扱っていた。
「RS」と呼ばれるレーシングスポーツタイプから「GT2」というツインターボモデル。
ポルシェのレーシング部門であるワークスでチューニングされたモデルやその他の限定モデルなどなど。
いわゆる空冷ポルシェの最後の時代。
その後、ポルシェは水冷化されて、どんどん大衆化の道を歩んで行く。
値段も2000万円オーバーのモデルがゴロゴロあって、来店されるお客さんもVIPの人だらけだった。
私の入社する前には、当時箱根にあったポルシェ博物館にレアモデルを納車したこともあった。
まだ、バブル経済の名残があった90年代半ばの話である。
当時はまだ支払いに現金を持ってくるお客さんも多くて、大蔵省のリボンのついたピン札の束を紙袋のまま「ドンッ」とテーブルの上に置いて、「はい、これ!」みたいな感じだった。
新人の私はひたすらその万札を数えるのだが、なんせ2000枚、2500枚、時には3000枚とあるものだから、慣れない人間には時間がかかることこの上ない。
しかもパリパリの新札だから、お札同士がピッタリ重なって余計に数えずらい…
「現金はその場で、お客さんの目の前で必ず数えろ!」と口酸っぱく教えられていたから、お客さんには申し訳なかったけど、私がお札の束を数え終わるまで目の前のソファーに座って待ってもらった。(話しかけられて、途中でパニクることもしばしば…)
(実際に1度だけリボン付きの100万円の束に1枚少ない99万円のときがあった…)
とにかく、そんな感じの時代だった。
超スパルタンなポルシェ
そんなレアなポルシェの中に「RSR」と呼ばれる、本当にレーシングカーとほぼ変わらないモデルがあった。
ロールバーが張り巡らされ、インパネとドアのインナー以外は内装の内張らしい内張もなく、助手席の足元には消火器があって、ボンネットは外付けのロックピンを外して開閉。
極限まで軽量化が図られたこのマシンはパワーアシストも付いてないからハンドルはメチャ重たくて、クラッチもクソ重い、というとんでもない代物だった。
今考えると、よくこんなクルマが登録できたものである。
とにかく、新人だった私には、ちょっとクルマを移動するだけでもドキドキもんで、
「乾式のメタルクラッチだから、スパッとクラッチつながないと、クラッチ逝っちゃうからな!」なんて脅かされていた。
当時、同じレアなポルシェの中でも異彩を放っていたモデルだった。
このクルマを、東京のあるお医者さんが注文するという話になった。
想定外のオプション
しかも、こんな怪物マシーンに、今ではほとんどお目にかかることもなくなった「CDチェンジャー」をつけて欲しいというリクエスト。
「CDチェンジャーっ!?」
当然、メカニックの人たちだってみんな???である。全員、鳩が豆鉄砲を食らったような顔で私の顔を見つめていた。
「こんなクルマで音楽聴くの??」「ってゆうか聴けるの???」
遮音材はほぼ使われていないので、排気音、吸気音、ギアノイズ、カムノイズ、ロードノイズ、風切り音が盛大に室内に入ってくる。
とてもじゃないけど音楽を聴けるような環境ではない。
アイドリングで停まっているだけでも騒々しいのだ。
「そんでもって、どこにCDチェンジャーなんかつけるの?」
デート用レーシングポルシェ
あくまでもこのお客さんの目的は、レースではなくて、タウンユースのようだった。
きっと銀座や六本木なんかのお店の前にババーンと乗り付けるのだろう。
でも、こんなスパルタンなモデルであの混み合った狭い路地を走るなんざ、相当の猛者である。
私が女子だったら、こんなクルマの中で愛の言葉をささやかれても、たぶん何言ってるのか分からない。
しかもペラペラのシートにガチガチの足回り、トドメは実質的に4点式のシートベルトで体を貼り付けられるから、動き出して5秒もしたらノックアウトだ。
AEDのお世話になること必至である。
「東京ってのはスゲー人がいっぱいいるんだ」とまだ純真だった私は素直に都会の人に対して畏敬の念を抱いていた。
結局、取り付け位置は、お客さんのリクエストで「助手席のサイドシルの内側あたりでいいよ」ということになった。
内張がないので配線がむき出しのチェンジャーが、スパルタンなRSRのインテリアをさらにストイックなアスリートの仕事場のような雰囲気に変えていた。
そして納車。
場所は忘れてしまったが、商店とオフィスが混在する緩い坂が多くある街並みの中にあるビルの地下駐車場にクルマを収めた。
そのお客さんの持ち物であろうロールスロイスやフェラーリがデーンと佇む。
その横に、CDチェンジャーを特別装備したデート用のレーシングポルシェが肩を並べたのだ。
「しっかりお客さんを喜ばして差し上げろよ」今だにわずかな疑問を残しつつも、もらうべき書類を頂いて東京を後にした。
聞き取れないほど怒り狂ったクレーム電話…
そして、数週間経ったある日のことだった。
そのポルシェのお客さんが烈火のごとく怒って電話してきたのだ。
「あんたたち、どうしてくれるつもりだ!!」
「えっ!? どうされましたか?」
「◯%$&⬜︎?△…!」興奮しているから何言ってるかわからない…
とにかくすごく怒っていらっしゃることは確かだ。
「だから…あなたの…CDチェンジャーが…彼女の…◯X△#$…」
どうやらCDチェンジャーが女性に何かをしでかしたらしい…
新手のスキャンダルか…?イヤ、冗談を言っている場合ではない。
お客さんは、すごい勢いで怒っているのだ。
そして、ようやく落ち着いてきて分かったことはこうだ…
「あなた達が付けたCDチェンジャーの取り付けネジに、女性のスカートが引っ掛かってスカートが破れた」と言うのだ。
「!?、そ、それは申し訳ございません」「すぐに対応させていただきます」…
結局、東京にまたクルマを取りに行き、クルマに対策を施してから改めて納車するという、という話になった。
原因は1本のネジから…
クルマを東京から引き上げて詳しく調べて分かったことは、ネジそのものにスカートが引っ掛かったわけではなかった。
そのネジのネジ山が崩れかかっていて、つまりバカネジに近い状態になっていた。
そのネジ山の崩れかかった金属のバリの部分にスカートが引っ掛かったようだった。
ほんのわずかな「手抜き」が、東京までの往復、約600km分の必要のない仕事を生み出した。
適切なネジの締め方をしておけば、ネジ山の処理をするなり、ネジを別の新しいものに替えておけば、乗り降りする場所なので、あらかじめ何か保護するような処置をしておけば…
不可抗力だったかもしれない。
いや、やはり人災だ。
「だってあんなクルマの、あんなところにCDチェンジャーを付けてくれということ自体がそもそも間違っている」…
メカニックの言い分も分からないでもない。
「プチ面倒くさい」を排除せよ!
あらかじめ営業側が、「その場所では邪魔になって危ないから、せめてダッシュの下に吊るしますね」とか危険回避の提案もできたはずだ。
しかし、大きなクレームの発端は、ほんの些細なことが原因になっていることがほとんどだ。
営業だって、「あの時、1本電話をしておけば」、「あの時、一言添えておけば」、なんてことはしょっちゅうある。
ただ多くの場合、それに携わっていた人は、その時、それに気づいていることの方が多いはずだ。
「ま、こんなもんでいいだろう」「ま、確認しなくていいだろう」「ま、伝えなくても大丈夫だろう」と…
一瞬でも脳裏をかすめたあなたの「心の声」にもっと耳を傾けよう。
そして、その「心の声」に応えよう。無視してはいけない。600kmも走らなくても済む。
この誰の心の中にもある「プチ面倒くさい」を排除しよう。
日々の積み重ねが、気づけばとんでもない差を生み出す。
ただしプラスの差を生み出すのも、マイナスの差を生み出すのも、最後はあなた次第だ。